ステキシフトby石川ジン平

真面目系クズ、ブラック企業、読書記事、考え方について書いています。

「悪いことをしている気がする」 罪悪感から解放された日

もうずっと何年間も「悪いことをしている気がする」から離れられなかった。どうしてだろう。

ぐったりした犬の画像

 

それはブラック企業につとめていたときも、その前も、ずっと離れなかった。大学進学したときもそうだった。一人で考え事を始めると、だいたい僕は悪いことをしている気がした。

そこに僕の非はあまり関係なかった。例えば働いているとき、二ヶ月以上連勤が続いたときも、僕がいなければそもそもお店が存続できないときも、営業成績一位をとったときも。客観的に自分に非がなくても常に罪悪感があった。

 

楽しいの罪悪感

一番ひどかったのは一年くらい前のこと。あの頃は「楽しいことをすること」にも悪い気がしていた。楽しいことをしていても、ふと悪いことをしている気がして、冷静になってしまう。職場の売上が気になった。僕はそれほど優秀ではなかったけれど、それでも自分がいないと売上が落ちる現場もあった。売上が伸びても、「お前がいない方が数字が伸びる」と言われるのが辛かった。どこにも出口がなかった。

休みの日に出勤すれば、売り上げが伸びる可能性があった。休みの日に出勤することで、嫌みを言われることも減るし、休みに出たことによって怒られることよりも、ちゃんと休んでちょっと嫌みを言われる方が辛かった。一年に数回あるかないかの友人同士の集まりは、全て行くことが出来なかった。結婚式すら、行けなくなったし、言い出せなかった。

 

赤字だから

僕の持っていた店舗は赤字の方が多かった。会社全体で見ても赤字の店舗が多くなることが多かった。赤字の店舗がある場合、それは自分たちでなんとかしなければならない。店舗を出してしまったのは所属人員の責任なので、連帯責任だと思った。自分の店舗が黒字になっても、他の店舗の赤字を埋めなければならないと、常にプレッシャーと戦っていたし、どちらかと言えば古株だったので、ノウハウを貯めて教育できないのも自分のせいだと思った。

ほとんどの自己啓発書に自分の行動の責任をとれと書いてある。今なら違う見方ができるものも、あのころはできなかった。多くのことに関して責任の一端が自分にある、それを果たそうとしていた。一番良いのは売り上げを確保することだったけれど、会社を満足させるだけの数字をあげることはとても困難だった。

 

転機

いろいろ事情があってその会社を辞めた。ブラックだったからもあるし、利益が出なくて所属していた事業がなくなるからもあった。僕は無職となり、世間的には全く評価されない立場になった。でも、気がついたら、あの日のように楽しいことができない体ではなくなっていた。ずっと続いていた罪悪感が治るきっかけは、間違いなく会社を辞めたことだ。

今にして思えば、誰かから嫌みを言われること、誰かから嫌みを言われた体験談を聞くこと、他の人たちが牽制し合っているのを見ること、そうした責任についての考え方が刷り込まれていたんだと思う。それは上司であったりその知人であったりして、ただその人たちも悪気があって行っていたわけではなかった。それが彼らの仕事だったし、僕にも確かに責があった。ただ、背負い方が下手で、疲れていた。

会社を辞めたあと、それを喜んでくれる人がいた。素直に嬉しかった。

 

本質は環境を変えることじゃない

こうしてブログを書いているのも楽しい。あれから楽しいことがぐっと増えたし、楽しむ最中に突然来る罪悪感に苦しむこともなくなった。どうして楽しいことができるようになったのだろう。常に悩まされていたあの感情はどこへ行ったのか。

会社を辞めたばかりの僕も、部屋を掃除したり会えなかった人と会ったり、楽しかった。でも、冷静に考えれば、どう考えても無職である状態の方が悪いことだった。日本国憲法にも27条に勤労の義務が書いてある。けれどもそのことについて僕に罪悪感はなかった。

そして僕は、悪い悪くないのを決めていたのは自分だとやっと気付いた。

悪いと思うかどうかは完全に自己評価で、自身の感情でしかない。実際に悪いかどうかを判断するのは社会であり、周囲の環境や規則である。どんなに困っていてもモノを盗むのはNGだけど、盗まなければ死んでしまう場合だってあるだろう。理由がちゃんとあれば盗んで悪いと思わない人もいるだろう。

だから、僕が罪悪感にまみれていたのは、周囲の圧力を恐れていたから。たったそれだけのことだった。期待を作り出して勝手に責任を背負っていた。責められたり嫌みを言われたりを必要以上に恐れていた。大学生のときもあんなに罪悪感にまみれていたのは、一流とされる大学に行けなくて、その努力もしなくて、それがコンプレックスだっただけだ。

 

今も悪いことをしている気がするときはある。何の前触れもなく、一時間くらい悩むときもある。でも頻度は少ない。責められないことに慣れ、脳内にいた僕を責める人が去って行った。そして今はそんな圧力を考えている暇もなくなった。やりたいことがあり、やりたいようにしたくなってしまったからだ。誘いがあっても優先順位の低いことは断ることもある。そのこと自体は確かに申し訳ないけど、その罪悪感には長時間悩まされない。

僕を責める幻は、ほとんど消えた。

 

罪悪感で元気がなくならないようになるためには、怒られる環境や責められる環境、そういう場から離れるかではない。きっと自分でどう考えるかどう捉えるかだろう。

でも、それがどうしてもできない人は、環境を変えてみてもいいかもしれない。

 

僕は環境が変わるまで、分からなかったから。

 

 

 

(このお話はフィクションです。実在の団体・企業・人物とは関係ありません。)

 

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 ↑会社を辞めるきっかけを書いた記事。

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 ↑今より罪悪感があったときに書いた記事。

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